難波 研(読み方 : なんば けん)
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公式ウェブサイト : https://www.ken-namba.com
難波 研は、静岡県浜松市出身の作曲家・編曲家・オーケストレーター。ライヴやイベントでの演奏や、スタジオミュージシャンとしての様々な作品への参加など、ピアニスト・ギタリスト・ベーシストとしての活動も行っている。
現代音楽をはじめとして、朗読劇やアート展示のBGM、アニメやゲーム作品の音楽まで多岐に渡る分野で活躍しており、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』や、『傷物語』といった作品における劇伴制作に参加して話題になった。これらの音楽以外にも、ゲストヴォーカルを迎えての活動やVTuberへの楽曲提供で、ピアノやストリングスが爽快なロック、壮大なスケールを感じさせる美しく切ないバラード、電子音を多用する派手なポップソングなど、確かな編曲技術をベースにして、様々なジャンルの楽曲を制作し続けている。
そんな彼に、ミュージシャンとしてのルーツや今に至るまでの道のり、音楽や創作に対するこだわり、そして現在進行形の活動やこれからの展望について、メールインタビュー形式でお話を伺った。
文 / 難波 研 編集 / 松江佑太郎 イラスト / あずとらこ
–まずはTOPPA!!初登場ですので、難波様の自己紹介をお願いします。
難波 研 : 皆様はじめまして。作曲家の難波 研です。今回はこのような機会をいただけて非常に光栄です。よろしくお願いいたします。
–よろしくお願いします。初めに、難波様の生い立ちについて教えて下さい。
難波 研 : 生い立ちとしては、音楽好きの両親のもとに生まれ、幼い頃から家には常に音楽が流れている環境で育ちました。父が洋楽好きだったこともあり、最新の洋楽ヒットチャートやジャズ、フュージョンなどをよく聴いていたのですが、今考えるとすごく恵まれた環境だったんだなと思います。母もクラシック好きでレコードをたくさん持っていたりしたので、いろんな国のいろんな音楽がいつでも聴ける環境でした。
私は出身地が静岡県浜松市なんですが、浜松市が「音楽の街」ということもあって、エレクトーンを習うのがわりとポピュラーだったんです。幼稚園の時にクラスのお友達がみんなやってるから、「自分もやりたいな!」という軽い気持ちでエレクトーンを習い始めたのが音楽の世界への本当の意味での入り口だったのかな……と思います。そんなに熱心にレッスンを受けていたわけではないんですが、演奏すること自体は好きだったので習いに行くことをやめることはなかったです。
–早い時期から音楽に触れていたんですね。創作を始めたきっかけはどのようなものだったのでしょうか?
難波 研 : そのまま小学生に上がり、父の友人から聴かせてもらった坂本龍一さんの音楽やラジオで偶然聴いたスターダストレビューさんの音楽に衝撃を受けました。「自分も曲を書きたい。」と思って見よう見まねで作曲をはじめ、4年生くらいのときには「将来は作曲家になろう。」と思っていました。とはいえ、当時の自分が憧れていたのは坂本龍一さんや根本要さんのように自分で曲を作って演奏してライヴツアーを回るようなタイプのミュージシャンだったので、今の自分とはちょっと方向性が違いますね(笑)。
あとは、その頃にたまたま出会った『王立宇宙軍 オネアミスの翼』、『銀河鉄道の夜』、『怪盗セイント・テール』、『魔法騎士レイアース』等のアニメ作品や、江戸川乱歩、太宰治、宮沢賢治などの文学作品がその後の自分にものすごく大きな影響を与えていると思います。
幼少期から今まで、ずっと変わることなく幻想的でファンタジックな作品が好きなんですが、上記のような理由にプラスして、育ったのが田舎だったという部分も大きいかもしれません。自然の中でいろいろな景色を見たり、音を聴いたり、星や風や水の力を感じたりしたことが、今の自分の創作活動に大きく活きていると思います。
–小学生の時点で基礎が出来ていたんですね。
難波 研 : 中学生に上がってからは音楽漬けの日々を送っていましたね。学校では吹奏楽部でサックスや特殊木管楽器を吹きまくり、家に帰ると眠くなるまでシンセサイザーで打ち込みをし、休日はエレクトーンやピアノを習いに行き……と、本当に音楽が中心の生活を送っていました。
当時、ブレイクダンスやフリースタイルラップがなぜか学校で流行っていたので、お年玉でサンプラーを買ってトラックメイクして、友人と踊ったりラップしたりして遊んだりもしました。
あとは深夜ラジオ! お布団に入ると必ず深夜ラジオを聴いていましたね。最新の音楽から自分が知らない過去の音楽まで、とにかくいろいろな音楽が聴けてラジオが大好きだったんです。今でも作業しながらずっとラジオを聴いているくらい、とにかくラジオが好きです。いつかラジオでパーソナリティをやってみたいです……!
そして、はじめて同人活動(らしきもの)をしたのもこの時期です。クラスメイト数人と、「Seed」という今聞くと死ぬほど恥ずかしい名前のサークルを立ち上げて、漫画を作ったりしていました(笑)。結局ちゃんとした作品を作ることはなかったんですが、自分は背景とベタとホワイト、それと音楽(読書BGM)を担当していましたね……懐かしいです。吹奏楽部の顧問の先生が同人誌を書いてコミケに出てるような人だったので、かなり自由にいろいろやらせてもらえました(笑)。
–特定の分野に囚われず、フットワークが軽いのがよく分かります。
難波 研 : 高校からは東京の音楽学校に進学して、ピアノを学びつつ学外ではバンド活動を行っていました。作曲家としての正式デビューも高校1年生の時です。
その後は大学卒業まで学校→バイト→音楽活動……というのをひたすらループする時代に突入して、いろいろなことを経験しました。いろいろなバイトもしましたし、正直順調とは言えない、泥だらけの谷底をずっともがきながら全力疾走しているような時期でしたが、その時期に学んだことは今の自分の血肉となって生きているので、そういう時期も必要だったのかな……と思っています。
もっとも大変だったのが大学の後半~大学院時代で、様々な外的要因が重なって音楽を続けられないかもしれない状況に陥ってしまったんですね。物凄く落ち込んで、「この先どうしよう?」と思っていたある夜にテレビをつけた時、たまたまやっていたのがアニメ『ARIA』でした。もう言葉にできないくらい本当に感動して、大きな衝撃を受けて、ずっと涙が止まらないという体験をしたんです。アニメってなんて素敵なんだろう、音楽の力ってなんてすごいんだろうと本当に強く強く思いました。そしてその時に、「何があっても諦めないで音楽を続けて、誰かの心に寄り添って音楽で救えるような作曲家になって、いつか必ずアニメ作品に音楽で携わりたい!」と決心しました。時期的に名作ゲームやアニメ、ライトノベル作品が大量に生み出されていたこともあり、年々その思いは強くなっていきました。特に好きだったのは『ひぐらしのなく頃に』、『Kanon』、『CLANNAD』、『GOSICK-ゴシック-』、『涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズなどです。
–困難な時期があったからこそ今があるんですね。その後はどのような勉強をされていたんですか?
難波 研 : そこからは、今まで積み重ねてきたものを全て捨てて1から学び直そうと思い、新しい先生を見つけてレッスンを受けに行ったり、丁度いいタイミングでウィーンへ短期留学をしたので、本場の音楽や芸術をしっかり学ぼうと美術館やコンサートホールに通いつめて様々な作品を鑑賞、研究しました。ウィーンでは音楽だけでなく、演技や歌唱なども学んだんですが、「いかに感情と表現が一致しているか」という点をひたすら叩き込まれました。先生に言われて特に印象的だったのが、「夜の美しさを知らない者に、昼の美しさは描けない。」というもので、物事を多面的に捉えて創作活動をすることの大切さを学んだし、その後の自分の創作活動の根幹の部分には常にこの言葉があります。
あとは、指揮の先生に勧められて魔術や占星術の研究をはじめたのもこの頃ですね。実際に魔術や占星術で曲を作るというわけではなく(笑)。考え方を応用するというか、発想と視野を広くするために使うといった感じです。自分は「音楽って魔法だ!」と常々言っているのですが、もともとそういう考え方を持っていたので先生に「魔術と占星術も勉強しなよ!」と言われた時にビビッと来たのを鮮明に覚えています。
海外留学では本当にたくさんの貴重な体験をしたので、語り始めると文字数が本当に大変なことになりそうなのでここらへんでやめておきますが、今音楽を志している若いクリエイターの方にひとつ言えるのは、「一度は海外に勉強しに行ったほうがいいよ……!」ということです。日本を出ることで改めて日本の良さを知れますし、自分らしさを見つける近道になると思います……! ちょっと旅行するだけでも全然違いますので、ぜひ……!
–音楽以外に学んでいることの範囲の広さに驚きました。本格的にお仕事を始めてからはどのような経緯があったのでしょうか?
難波 研 : 話をもとに戻しますと、大学院を卒業して以降はひたすら下積みの日々でした。
アニメやゲームの商業作品に携わりたいという一心で、どんな小さなお仕事も受けましたし、名前の出ないお仕事もたくさんやりました。何かの助けになるかもしれない……と思ってクラシック音楽(現代音楽)のコンクールに作品を送ってみたり、某有名書店で社員をやったり、音楽出版社で校正のお仕事をしたり、「ためになりそうだ!」と思ったことは何でもチャレンジしました。そういうチャレンジの積み重ねが自分を強くしてくれたし、いろいろな新しい出会いを生んでくれました。
面白いことに、初めてアニメ関連の会社さんと接点を持ったのは現代美術の展示の音楽をよく書かせていただいていた時期で、お世話になっているギャラリーさんからいただいた「『ダンタリアンの書架』という作品を題材に朗読音楽劇を書いてほしい。」という依頼からでした。その音楽劇はありがたいことにご高評をいただき、再演にもかけていただけましたし、その舞台をきっかけに知り合った方から同人関連でお仕事をいただけるようになったり、様々な繋がりを生んでくれたんです。その時の繋がりのいくつかが今の自分のお仕事にも繋がっているので、この作品がターニングポイントだったと言えるかもしれません。
–何事にもチャレンジする姿勢がチャンスに繋がったんですね。
難波 研 : そして、2012年からは音楽制作チーム・サークルであるaim music developmentを立ち上げ、主に声優さんを招いた生演奏の朗読劇を制作する傍ら、少しずつゲーム音楽のお手伝いに呼んでいただけるようになりました。2015年に3DSのゲーム『ステラ グロウ』という作品で堀江由衣さんに曲を書かせていただいたのをきっかけに、徐々に大きなタイトルのお仕事に参加させていただく機会が増え、現在に至る……という感じです。
まだまだ勉強中の身ですが、今まで繋いできた素敵なご縁を大切にしながらこれからも頑張っていこうと思っています! 精進あるのみです!
–とても興味深いお話をありがとうございました。次は、難波様の音楽的ルーツをお聞きしたいと思います。まず、これまでにどのような音楽を聴かれてきたのでしょうか?
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