CYCLAMEN / Realising Media 今西勇人(Hayato Imanishi)
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CYCLAMEN
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まず、今回ご紹介する今西勇人について簡単に紹介をさせて頂きたい。
彼はイギリスや日本、そして世界を股にかけて活動するプログレッシブ・メタルバンドCYCLAMENのVo/コンポーザー/リーダーを務め、過去HAUNTED SHORES(※PeripheryのMisha Mansoor(Gt)とMark Holcomb(Gt)のプロジェクト)とのSplit EPリリース、UK-Tech Festに出演するなど、日本人として世界中のテック・メタルシーンに名が知られている。
また、近年はプロモーター業Realising Mediaをスタートし、過去SIKTH (UK)やCYNIC(USA)、PROTEST THE HERO(CAN)、DESTRAGE(ITA)、VEIL OF MAYA(USA)、THE DILLINGER ESCAPE PLAN(USA)など、数多くの名だたるテック・メタル・アーテイストを日本に招聘してきた。
今回、TOPPA!!編集部は、「変」を極める今西氏に対し、彼の生い立ちから音楽的ルーツ、プロモーター業を始めるきっかけ、海外アーティスト興行の裏側に迫るべく、堂々の10000字以上インタビューを実施した。
取材・文・編集 / 宮久保 仁貴 写真 / Kenta Izumiya
-TOPPA!!初登場ということで、改めまして、今西様の生い立ちを教えて下さい。
今西 : どこから話そうかな……音楽活動について言えば、元々親から習い事としてピアノを習わされたんですよ。
ダラダラ10年続いたんですけど、なんせ覚えなかったですね(笑)。
小学校でリコーダーとかを学校で習わされたんですが、これに関しては、親が上手く出来ているなと思ったのか、クラリネットも習わされたんですよ。ただ、こちらに関しても挫折してしまいましたね(笑)。そして、中学に入って2-3年くらい音楽に触れなかったんです。
ある時、中学の時に野外活動のサマーキャンプで、同い年で弾き語りが出来る友達に出会ったんですよ。当時14~15歳くらいの時期で、まぁ「中2病」的観点からすると、憧れの対象になりますよね。彼からCやGコードを教えてもらい、ギターを始めました。昔から今に至るまで、音楽を始めるきっかけで一番大きな出来事は彼との出会いでしたね。
–今西様は学生時代をイギリスで過ごされたかと思いますが、こちらはいつからいつの時期になりますでしょうか?
今西 : 元々小学校の頃は日本にいました。
中学受験の時に失敗して、中学1年の時は「歩いて数分で行けるから。」という理由で最寄りの学校に進学しました。ただ、そこがあまりにもつまらなさすぎたんです。別に不良になったとかそういう意味では無くて、
「このままだと自分は何のやる気もなく腐るんだろうな。」とその時意識したんですよ。
小学校の頃、両親が「留学しないか?」と言われたんですが、当時はピンとこなくて。でも、中学校の1年目を経験し、「このつまらない日々からどうやったら抜け出せるんだろう?」と思った時、留学の話を親に切り出しました。
そして、親も承諾し、イギリスへの留学が決定しました。
当時は英語も全く喋れず、最初は現地の超スパルタ語学学校で半年過ごしました。教材も会話も全部英語で、家ではホストファミリーにもチェックされる程の厳しさでしたね。当時はまだメールも発達しておらず、連絡するのにも電話か手紙といった所でした。ただ、男子中学生がマメに手紙を送る事はまぁ無いですよね。そこから半年間、英語のみの生活を過ごし、現地の中学校に転入しました。
この時、ボーディングスクール制度(寮制度)にも助けられましたね。
サマーキャンプに行ったのと現地の中学に入ったのがほぼ同時期で、この中学もイギリスの田舎にあった為、どこか遊びに行く場所も特に無かったんです。
「じゃあギターをとりあえず弾くしかないな」といった感じの人生を5年程過ごし、学校の友達とバンドも始めました。こちらが10年程続いたバンドでPINK WIDOWというバンドになります。ドラマーが日本人で、彼がhideの大ファンで最初はPINK SPIDERという名前だったんです。ただ、当時THE PINK SPIDERSなるバンドがいて、「改名しろ!」と連絡を受けまして、僕たちはPINKの部分は残し、BLACK WIDOWの「WIDOW」と掛け合わせてPINK WIDOWという名前で活動しました。こちらのバンドは当時学外でも積極的に活動していまして、THE DILLINGER ESCAPE PLANやSKINDRED、WILL HAVENのサポートアクトとして共演した事もありました。自分はこのバンドでギタリスト兼コンポーザーとして活動していました。
PINK WIDOW Myspace URL : https://myspace.com/pinkwidowmusic
今ではボーカリストに専念していますが、本来自分はギタリストなので、いつかまたギタリストとして活動出来ればな、とは思っています。ただ、時間が全く無いので難しいですが(笑)。
このバンドに関して言えば、活動当初からも解っていた事なんですが、演奏技術がそんなに上手く無かったんですよ。そして、大学の後、皆で仕事もしながら続けようと思っていたんですが、ドラマーが大学院に行こうとして受験に失敗したんです。そんな訳で、彼自身バンドに専念する訳には行かなくなり、メンバー全員も彼の活動に合わせる形でバンドを続けてきたので、バンドの活動も迷走して行ったんです。
そんな中、自分自身そろそろ流石に演奏が上手い人たちとバンドをやりたいと思ったんです。そこから、このバンドメンバーで演奏する前提を一旦投げ捨て、ライブで再現出来るかどうかは別にして、自分の満足の行くように独りで楽曲制作に望んだんです。そして出来上がった楽曲群の中の一つに、今でもCYCLAMENで演奏している「NEVER ENDING DREAM」の原型が出来上がりました。
丁度その時、SIKTHがメンバー脱退で活動休止していた時期ではあったんですが、彼らみたいな音楽を創りたいなという気持ちが強くなった事を覚えています。この他にも、友達からMESHUGGAH、そして何故か当時のバンドメンバーのVoから日本のenvyの存在を教えてもらいました。イギリスに来る前は、勿論自分はこういう日本のハードコアなどは通っていなかったんです。ただ、彼がフレンチハードコアや叙情系の音が好きで、digを続けている中でenvyに出会い、自分に教えてくれました。今では、envyは自分にとっていちばん好きなバンドですね。最初は雑に聴き流していたんですが、ある時仮眠状態でenvyを聴いていると、不思議なゾーンに突入したんですよ。自分は本睡眠とレム睡眠の間に音楽を聴くと、そういうゾーンに入ってしまうみたいで。それがCONVERGEだと地獄のような体験をしますし(笑)。envyを聴いた時、心が清まったんですよね。
話を戻すと、やっていたバンドが解散直前に始めたソロプロジェクトがCYCLAMENの原型となります。原型は歌が入っていないインストだったんです。その頃、Myspaceが盛んで、今のTwitterの様に連絡ツールとして使用していたんです。そこで、SIKTHのMikee Goodman(Vo)に「この曲を歌ってもらえませんか?」と送った曲が「Sleep Street」だったんです。当時はまさか彼からOKが出るとは思っていなかったので驚きました。
–そこからCYCLAMENは日本でのライブ活動もスタートされますが、確か初ライブは2012年11月30日のWILD SIDE TOKYOですよね?その時、僕自身も観に行ったんです。
今西 : マジかー!!恥ずかしい(笑)。
あの日は今HER NAME IN BLOODのマネージャーを担当しているYUSUKE氏が、当時WILD SIDE TOKYOで働いていまして、彼が企画してくれたライブなんですよ。確かCONCEPTION COMPLEXやawkward hureと共演しましたね。懐かしい。
–それでは、今西様はCYCLAMENの活動と共に、Realising Mediaとしてプロモーター活動を始められた訳ですが、こちらのきっかけを教えて下さい。
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